部活が急に休みになった日
「おはよーございまーっす」
と元気良く挨拶をしたけど部室には誰もいなかった。
「おかしいな、鍵あいてるのに」
吹奏楽部の部室は校舎とは別棟になっているから部活がないとき、人が居ないときは大抵鍵がかかっている。
恐る恐る自分の席まで向かい、席に着こうとするとガタンと言う物音。
「羽島君、連絡行かなかったんだ?」
能天気な声とともに部室の奥の楽器室から霧谷が現れた。
「ふ、副部長!どうしたんですか!?」
湊は驚いて椅子から転げ落ちるところであった。
「今日は左藤先生がヘルニアで休んでて三角もだるいから部活休みなんだってさ。羽島君に連絡来てないなら高本君も知らないかな?」
「はぁ、そうなんですか・・・じゃあ高本君にメールしときます・・・」
そう言ってスクールバッグをがさごそ漁り始める湊に、霧谷は尋ねた。
「羽島君、この後暇?」
「へ?僕ですか?・・・特に何も無いですけど・・・」
部活がある日は同室のよしみで東と一緒に帰ることもあるが、そうでない日は直帰する。
予定なんて部活と実家のこと以外には無いに等しい。
「そうか、じゃあ一緒にお茶しようよ。僕が奢るから」
「お、おごり、ですか・・・?」
霧谷は湊にとっては尊敬と畏怖、そして好奇心が同率くらいに並ぶ存在である。
数秒考えてみたものの断る理由も思いつかず、じゃあと誘いを請けることにした。
「あの、じゃあ…お言葉に甘えて…」
「よかった、断られたら奥の楽器のメンテするつもりだったから」
「そうなんですか!?楽器、たくさんあるのに…」
楽器室の楽器の質はすなわち、この学校の吹奏楽部が過去いかに成績を残してきたかを語っていた。
そしてその成績は誇りに満ち溢れたものばかりであるべきだった。
今は誇りならぬ埃にまみれて放置されているが。
「誰かがやらないといけないことだから」
ほんのちょっぴり、寂しそうに微笑む霧谷。
「じゃあ行こうか」
だがしかしぱっと表情を変えて制服のポケットからさっと鍵を取り出してさっさと歩いていってしまう。
「早く来ないとおいてっちゃうよー」
「え、待ってくださいよ副部長!」
湊は慌てて霧谷の後を追った。
「あの…この道って…」
霧谷の歩く道のりは、普段湊が見慣れた道。
「寮への帰り道だよ」
「ですよね…」
奢り、と言うからには、喫茶店かファミレスかなにかだと思っていた。
だが寮の周りにはハッキリ言って何もない。
はたけとたんぼしかない。
食堂も購買も、その他生活に必要な施設はおおむね寮の中にあるから周りには何もない。
だから、遊びたい学生達は自転車で一時間かかる街に出る必要がある。
しかしそれには来た道を戻らなければいけない。
徒労だ。
「不満なら、戻る?」
「え…いえ、不満だなんて!」
まあ、きっと寮食かな?ケーキもあるだろうし…などと考えを巡らせるが、
なぜか霧谷の歩みは施設棟とは逆の本館である宿泊棟へと向かっていく。
「僕ね、紅茶が好きで、ケーキも時々簡単にだけど作ったりするんだよ」
「紅茶と、ケーキですか…」
ようやく霧谷の、奢る、がなんとなくわかった。
「あ、紅茶が苦手だったらコーヒーもあるよ。種類は少ないけどね」
それはつまり、ご馳走する、が正しい用法だった。
「大丈夫です、紅茶好きですよ!むしろコーヒーは甘くないと飲めなくて…」
「ほんとー?羽島君らしいね」
前を歩く霧谷の表情はわからないけど、声音は柔らかで楽しげだった。
「レモンやミルクもね、何種類かあって、それから…」
霧谷の部屋、と思しき部屋にたどり着くまでに延々紅茶の話が続く。
湊が知らないような話も多かったけど霧谷はそれでもわかり易く丁寧に説明してくれた。
「あれ、表札が…」
ネームプレートには霧谷の姓しか見当たらないし、そもそも一人分の枠しかない。
「3年になると完全個室なんだよ。だから遠慮しなくていいよ」
それで部屋に呼んだのか、と湊は納得した。
「音楽、何か聞く?」
部屋に案内するなり霧谷は机で開きっぱなしになっていたノートパソコンを立ち上げる。
「えっと…最近の曲とかわからなくて…」
「僕も、クラシックとかそういうのばっかだな。じゃあ適当に流すね」
霧谷がノートパソコンをいじると何かしら心地よい曲が流れ出す。
聞いたことはあるけどタイトルは思い出せない、いや知らない、そんな曲。
「ちょっと待っててね」
キッチンスペースに姿を消した霧谷を待ちつつ、湊はぼーっと部屋を眺めた。
想像した通り、想像以上に霧谷の部屋は整然としていて、霧谷らしい部屋だ。
一個だけある三段組のカラーボックスの一番下にバンドジャーナルがぎっしり詰まっている。
なんとなく、当たり前のことなのに、意外なことのように感じた。
「見てても良いよ」
「え、はい!」
カーテンから顔を覗かせた霧谷に促され、特に読む気もなかったのにとりあえず最新号を引き抜いた。
「今年も熱いなぁ…」
コンクール地区予選が近いためにさまざまな強豪校が紹介されていたが、
その中には当然福砂学園の名は無い。
記憶が確かなら、中学の1年2年の時のこの時期の号には必ず載っていたのに。
「お待たせ」
ぬっ、と後から影が落ち、湊は影の主を見上げた。
「不思議な…器ですね」
霧谷の抱えるお盆に鎮座するのは小さなカップ二つと装飾を凝らしたティーポットにしては少し大きめの容器。
「サモワールって言う湯沸かし器だよ、これは小さめのだけど。熱いから気をつけてね」
そう言うと霧谷は慣れた手つきでテーブルにサモワールとカップを並べる。
「もう少し待っててね」
霧谷はまたキッチンへと姿を消した。
「オレンジペコにジャムはお好みで、それから昨日焼いたのだけど、簡単なクッキーとマフィンね」
ポップなデザインのクッキーとチョコチップやナッツの入った数種類のマフィンは、
どう贔屓目に見ても「簡単な」ものではない。
湊の五感はもはや甘い香り一色に染まってしまっていた。
オレンジペコを多めに詰めたティーポットにサモワールから熱い湯が注がれ、
益々甘く優しい香りに包まれていく部屋の中。
「すごい、いい香りです!」
「香りもいいけどね、そろそろジャーナルは仕舞おうか、羽島君」
「あ、わ、すみません!忘れてました!!」
ジャーナルを膝の上に開いたままじーっと霧谷の一挙手を見守っていた湊は指摘されて思わず赤面した。
「いいよいいよ、面白いね羽島君は」
「おも、しろい…ですか」
変なところを面白がられてもあははと苦笑で返すしかない。
「僕の妹が羽島君だったらよかったのに。すごい生意気なんだよあいつ」
「え、い、妹!?妹さんいらっしゃるんですか!!?」
てっきりというか勝手に一人っ子っぽいなあと思っていたので、妹云々発言は湊には驚きだ。
驚きすぎてどんな人物か全く想像できない。
「うん。羽島君素直で可愛いし、妹に欲しいな」
「えー…僕一応男なんですけどね…」
童顔で背が低いことも手伝って年相応に見られたことが無いし、
時により、女の子に間違えられることだって片手がグーになるくらいはあった。
けど、湊はやっぱり男の子なのである。
いくらほめ言葉の延長とは言え、妹、と言われても全くうれしく無い。
「じゃあ……とか」
口元だけでつぶやいたのか、何と言ったのかは湊には聞こえなかった。
スッと、湊の眼前に目の前に座るいかにもフルート奏者らしい綺麗な指先が伸びてくる。
「あ、の…?」
湊に怪訝な顔をされると、指先はカップに移った。
「ごめんごめんこんな喋ってたらさめちゃうね。召し上がって」
そして指先のカップは湊に差し出される。
「は、はい、頂きます…」
「スプーンにジャムを盛って、舐めながら飲むとちょうど良い甘さになるよ」
霧谷は小さなスプーンでジャムをすくって湊の口元に差し出した。
数秒を戸惑いつつも差し出されたスプーンをぱくっと銜え、
ソーサーの上に戻すと今度は紅茶を一口口に含む。
「ほんと…おいしいです…温かくて、ほっとします…」
甘すぎず、苦すぎず、濃いのに濃すぎない、絶妙なバランスだった。
「気に入ってもらえて…よかった」
霧谷はほんのちょっぴり、寂しそうに微笑んだ。
「あの、副部長」
「ん?」
紅茶をすすっていた霧谷が視線だけ湊に向けてきた。
「僕も楽器のメンテ手伝いたいです」
霧谷の動きが止まる。
「手伝いって言っても…金管楽器とかは良くわからないので何も出来ないかもしれないですけど…」
「気持ちだけでも、嬉しいよ」
湊の申し出に肯定とも否定とも取れぬ言葉を霧谷は返した。
「定期的にやってるわけじゃないし、僕一人の気まぐれだから」
「そう…なんですか?」
「うん」
たった一言。
一方的に会話を切られたような気がした。
「じゃあ、副部長の気が向いたときに、手伝います…」
黙って差し出されたクッキーを受け取りながら呟くと霧谷はクスっと笑う。
「やっぱり、妹だったらよかったのに、ね。湊君」
忘れかけていた話題を再び持ち上げられた湊は思わず噎せそうになった。
「あ、妹だから湊ちゃん、かな?」
「え、ちょ、だから、えー!えー!そんな副部長ひどいですー!!」
だから湊は気づけない。
「うそうそ。ごめんね、湊君」
霧谷にうまくはぐらかされてしまっていることを。
「もう、ほんと傷つきますよ!」
「僕ってほんと酷いやつだから、好きなだけなじっていいよー」
言ってることの割りに妙に落ち着いていて、冗談なのか本気なのかわからないから余計にタチが悪い。
「うう…そんなことできませーん!」
本気で泣き出しかねない湊を、それでも霧谷は温かい視線で見つめていた。
「あああ!!!」
と、突然何かを思い出したように素っ頓狂な声を上げた湊。
「どうしたの?」
真っ青、とまではいかないけど、湊の表情の内ではかなり焦っている顔だと霧谷は認識している。
「高本君に部活の休みのことと副部長と居るってことメールするの、忘れてました…」
湊が自分でメールしますと宣言したから霧谷はてっきりもう送っているものだと思って東には何も連絡していない。
「あらら、部活のことだけでも五十右か結城が連絡してくれていればいいけど」
今のところ湊にも連絡が無いので東に連絡が行っている可能性も期待できない。
「わあ…たぶんないですよね…連絡なしに帰りが遅くなって高本君怒ってるかな…」
「うん。怒っているかもね」
彼は君の事をとても大切に想っているから。
「もし彼が怒っていたら自分の言葉できちんと謝るんだよ。湊君」
霧谷は湊の少し薄い鳶色の瞳を見つめる。
湊の頬は少し紅かった。
霧谷に見つめられているからではない。
「僕が、五十右が、結城が謝ってもこればっかりはどうにもならないことだから」
それでも霧谷は湊をただただ見つめていた。