Scarborough Fair 前
「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム」
女の声がして老人は小屋の外に頭を覗かせる。
全身に黒いローブを纏った女を声の主と認識した老人は声を掛ける。
「パセリ5束」
「100センズよ」
「ずいぶん安いね」
「明日スカボローで男と落ち合うの。そしたら東方、南方を巡るでしょ、そしてまた中央で結婚式をあげるのさ」
「そうか…」
短いやり取りの後、老人は金銭とともに短く認めた手紙を女に持たせる。
「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム」
手紙を持たされた女は良く通る声を響かせ村を出て行った。
セントラルの北、北部との境よりほんの少し手前で中央との流通・交易を担うスカボロー市の北の端。
頭に灰を被り、墨で皺を描き、ほんの少しの書物と作物で晴耕雨読を凌ぐ老人。
「ああ、あいつをスープにするか」
市から仕入れてきてから随分長く飼っていた鶏を一羽、占める。
衣服が血に染まっても気にしない。
元々穢れている。
老人には昔家族があった。
父、母、弟、が母、弟になり、いつの間に弟と二人きりになっていた。
それでも、紆余教説あったとしてもどうにかやっていたはずだったのに。
それが、いつの間にか一人きり。
そして、いつからかこの生活に違和を覚えることも少なくなったいた。
遡ること3年前。
マスタング失脚の報は一夜にしてアメストリス全土を蝕む。
「どういうことだね説明したまえ」
「ただ、己の管理が甘かった、としか説明のしようがありません」
「無様だな」
「返すお言葉がありません」
「責任の所在は!」
「全て、己の、責任です」
マスタングは蒼白の面をまったく隠さず、ただそう発言し続けた。
なにしろそれはほんとに油断していたとしか言いようが無い、寝耳に水の出来事。
アメストリス全土で息を潜めていたイシュヴァラのテロ組織が手を結び合い、祖国を奪還せんと目論んだ。
まず中央と東方を結ぶ鉄道が全て襲撃され、電線は切って落とされる。
無線連絡を絶つための妨害電波まで発信され東方はたったの半日で完璧にアメストリスから断絶された。
狂信的なまでの縦横の連結、イシュヴァールが村と町とを侵していくのにそう時間はかからなかった。
多くの政治家・指導者は殺され、逃亡手段を持たない民はイシュヴァラを畏れて成す術なく従う。
更に支援も物資も届かない地域では侵される前にやりかえしてやれと暴動すら起きる。
矢面に立ってそれを制しなければいけない苦渋に耐える東方司令部。
部下をもぐりこませ潜伏先の情報を得、こぎつけた掃討戦の最中にマスタングは倒れた。
敵に不意をつかれたでも、銃弾に倒れたのでもない。
何の前触れもなく突然苦しみだしたかと思えば意識を失った。
突如作戦指揮官を失った司令部は必死の抵抗虚しく壊滅まで追い込まれる処まで行く。
エドワード・エルリックが現れるまで。
エドワードは速やかに作戦を立て直して指示を飛ばし、部下達はなんとか司令部を奪還。
そこから一斉駆逐を展開して徐々に拠点を取り戻していった。
司令部では第二の英雄と持てはやされたがエドワードは決して自身が先頭に立って戦ったわけではない。
戦えるわけがなかった。
彼の体には生身が戻り、自身が得意とするような錬金術を用いる作戦については一切言及しなかった。
そして常に彼の横に立つべき全身機械鎧と密かに呼ばれていた弟は姿を消していた。
エドワードはただ、エドワードでなければマスタングが出していたであろう指示を飛ばしただけった。
そして鎮圧後すぐにエドワードは誰にも明かさず身を隠した。
そうすればマスタングの復帰後も辛勝とは言えこの掃討戦がマスタングの功労になる筈、だったのに。
それなのにマスタングは復帰できなかった。
それどころか職務放棄として軍籍を剥奪され、北方へとおいやられてしまった。
イシュヴァール叛乱、駆逐戦の混乱から3年の歳月を掛けて復興したイーストシティ。
その大通りに面した住宅街は休日の昼間だからなのかすっかり以前の賑わいを取り戻していた。
「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム」
女の声がしてエドワード・ホーエンハイムは窓から顔を出した。
「すいません!ひとつずつください!」
「230センズよ」
「はいはい!」
「あ、そうだちょうどよかったわ坊や、お宅にお手紙よ」
女は老人から受け取った手紙をハーブの束と共にエドワードの降ろした籠に載せた。
「え、うちに?」
「ええ、イーストシティ2番街のエドワード・ホーエンハイム」
女が住所と名前を正確に読み上げたので確かにとうなずくエドワード。
「僕宛?…誰だろう…」
代金を籠に入れて降ろし受取を確認するとエドワードは手に取ったボロボロの封筒に視線を移す。
宛先は確かに自分の名だが、差出人は無記名だ。
封を切れば魔方陣のような物が描かれた古びた羊皮紙が一枚あるだけだ。
「なにこれ、あ、ねえ」
「パセリ、セージ、ローズマリーに…」
女に尋ねようと窓の外に顔を出すがすでに遅く、遠くに声が聞こえるのみで姿は見えなくなっていた。
エドワードは諦めて窓を閉めると、その不思議で不気味な手紙をすぐに机の引き出しに放り込む。
よし、何かを決めたエドワードは北からの冷えた芳香を放つハーブの束を掴んで部屋を出た。
隣の書斎の机上で本を開きっぱなしにしたまままどろむ父に夕食のメニューを伝えるために。
北部の最北、ブリッグズ要塞の手前の街ではまだ秋の入り口ながら雪がちらつき始めていた。
国立ブリッグズ名誉病院の一室。
「ハボック少尉…鋼のの所在はつかめたか?」
一月ぶりの再会だが、ハボックはぎょっとした。
青白い男の顔は雪の白さよりも白い。
そして隠しているからわかりづらいが時折、ほんの一瞬にでも苦痛に歪む。
「たい…いや、もう少尉じゃありませんし、それこそ一向に」
「そうか、癖でな」
そう言うと青白い顔の男、ロイ・マスタングは随分と痩せた黒い髪をやつれて骨ばった細い指で梳く。
「新しい薬は、効いてるんッスか?」
手持ち無沙汰に己の顎を覆い隠しているマスクをさするハボック。
タバコは止めていた。
ここ数ヶ月でこの元上司の病状が日を追うごとに悪くなっていたから。
いや、それよりも前から控えていたような気もする。
鋼の錬金術師と呼ばれた少年と、その弟が姿を消してからずっと。
「まあな。こうして生きていると言うことは、あながち治療も闇雲ではないと言うことだろう」
北方司令部、とりわけブリッグズに程近いこの街はアメストリスの要となる街。
したがって街に注がれる軍事力、技術力、医学は全て最先端を行っていた。
要所ゆえに土着の者以外で一般の人間が訪れることも少ないため、普段は寂しい田舎然とはしている。
それでも街医者すら不足するイーストシティに縫いとめられるよりか、
真っ当な医療をうけられるこの北部はましだと言える。
上層部はいずれは死に行く元佐官に僅かばかりでも温情を見せたのかもしれない。
「骨髄なんちゃら症、でしたっけ?」
「骨髄、線維症だ」
治療法の研究は進められているが、現在の医療水準では不治の病に等しい。
「参ったものだ。自覚症状が遅くてな。あと3年と言われたよ。喜んで良いのか嘆けば良いのか」
幸い、佐官だった頃の貯蓄で治療費はまかなえているがそれもいつまで持つかわからない。
3年とは、今のロイ・マスタングにとっては実に微妙な数字だった。
「そりゃ医者にとっての都合の良い目安っすよ、医者の宣告よりもっと生きてる人はいくらでも居ますから」
そして逆もしかり、とはマスタングもハボックも決して口にはしなかった。
だからハボックは一刻も早く鋼の錬金術師を探さねばならない。
「今の様子では脾摘もやむをえないらしい」
「脾適…」
「治療と体力次第、だがな…」
ロイ・マスタングはハボックが見ても誰が見ても明らかなほどしっかり肩を震わせていた。
その顔が窓に向けられれば、青白い顔は雪の光によってより白く見える。
治療、輸血と投薬だが、それが症状に間に合っているのか疑わしい程。
誰の目から見ても確実に弱っているのは明らかだった。
「当時はただ少し年を取ったと感じていただけだった。身体の不調だなどと微塵も感じていなかったよ」
食思不振、、食事すれば腹部に膨満感を覚え、少しの運動で吐き気、呼吸の乱れがあった。
身体を酷使する軍人としてはよくない兆候だとホークアイに何度もドッグでの検査を進められた。
しかし寝不足と忙しさのせいにして、ロイ・マスタングはそれを流していた。
「その結果がこのザマだ」
己の不養生によって、ただでさえ恐慌状態にあった司令部を更なる混乱に陥れた罪は重い。
事件後の精密検査によって治療困難な難病が発見され、
当時マスタングに代って指揮を取っていたエドワード・エルリックが過去に犯したとされる罪の容認・隠蔽が発覚し、
と、現実は次々にマスタングを窮地に追いやっていく。
そして責任も取れない雑務すら行えない本当の無能に成り下がったマスタングに、「難有り」との判断を下した上層部は軍法会議の末、軍籍剥奪を決定した。
「私は、あの子に、鋼のになんとしてでも再会しなければならないと言うのに」
にわかに宿る眼光、否、焔。
そしてその拳が握られ、ほんの少し血気が戻るのを確認したハボックはロイ・マスタングに背を向けた。
「あんたは、せいぜい死なないように養生してくださいよ」
ハボックはかつて上司と仰ぎ命を預けあいながら支え支えられた人の瞳と拳に誓う。
「大将のことは俺が必ず見つけ出しますから…」
たとえ今の自分がロイ・マスタングを追って軍属と言う特権を捨てた、足元すら覚束ない状態でも。
夕食を終えたエドワード・ホーエンハイムは自分の部屋に戻り、机に向かう。
エドワードには3年前より前の記憶が無い。
最初に意識を取り戻した頃は記憶が無いことに戸惑って随分荒れたりものした。
だがある時、騒乱で弟を失ったショックから記憶を失ったのだと父から聞かされてからは、落ち着いた。
「アルフォンス…」
僅かに残った、遺品である端の焦げた写真を見、その弟の名を呟く。
「僕、何も思い出せないよ…」
記憶は無くても、暖かかった、という気持ちだけはなんとなく覚えている。
机に向かい、引き出しにその写真をしまおうとすると、ふと昼間の手紙が目に入り、手に取る。
「なんだろうなあ、これ」
そういえば。
「せめてどこから来た手紙なのか聞けば良かったのに」
手紙に興味を奪われているうちにハーブ売りの女は姿を消してしまったため聞きそびれてしまった。
と、後からコンコンとノックの音が響いた。
「エドワード、明日は早いからもう寝なさい」
「あ、はい父さん」
慌てて手紙を隠そうとするが生憎間に合わなかった。
「なんだいそれは?」
父に尋ねられ、エドワードはとっさに嘘を吐く。
「ん、友達からもらったんだ。ハーブ売りの人に頼んで届けてもらったみたい!」
とっさに出た嘘の割りに、エドワードのそれは何故かひどく落ち着いていた。
「それは面白い友達だな、今度是非父さんに紹介してくれ」
しばし何か考えていた父であったが、素直に頷くエドワードを信じたのか、おやすみ、と部屋を後にする。
「はあ…後で誰か適当に根回ししなきゃな…」
エドワードは胸をなでおろし、手紙を机の端に追いやるとため息を吐いた。
こういうことをしそうな友人は何人も居たが、明日はそれら友人に頼みに行く時間はなさそうだ。
「スカボローフェア、楽しみだな!」
そう、明日、明後日、明々後日は秋口の最大の市が開かれる日だった。
「ふふふ、早く明日にならないかな~」
そう言って意識を手紙からベッドに移したエドワードは気づかなかった。
手紙が、偶然にも机の下の「明日持っていく鞄」の開いた口の中に落ちたことを。
「エドワードっても…ありふれてるっちゃーありふれた名前、なんだよな」
電話帳を開いてかたっぱしからエド、あるいはエドワードと言う名の人間に電話を掛けた。
少数だがエルリックと言う姓にも掛けた。
ひとまず一番可能性のありそうなリゼンブールの街は全滅だった。
次はイーストシティだな、とページを閉じようとすると電話がかかってきた。
「うい、ハボックっす」
「相変わらずね、ハボック少尉。一月も電話に出ないとは相当お忙しいようね」
「…中尉、いや今は大尉っすか、大尉こそ、もう俺は少尉じゃねーっすよ」
電話の相手は名乗りこそしなかったがその強気の声ですぐに誰かはわかった。
「貴方が軍を離れようと、私にとっては仲間であることに違いないわ」
強く、きっぱりと言い放つリザ・ホーークアイこと元上司の元副官。
「大佐の様子は、どうかしら」
てっきりマスタングの後を追うかと思ったホークアイはまだ、軍に席を置いている。
「あいかーらずっすよ」
やはりその一言に尽きる。
「そう、相変わらず…」
電話の先のホークアイはなにごとかを思案しているようでった。
「それなのに大将のしっぽすら掴めやしねえ。ったくどこ行ったんすかねあの馬鹿野郎は」
遣る瀬無い怒りはどこにぶつけようとしてもやはり遣る瀬無い。
ぶつけようにも矛先を見つけることすらできない。
人体練成は禁忌。
エドとアルが生身を取り戻すことは悲願であったが、同時にロイ・マスタングの妨げにもなることだった。
誰がどう見ても機械鎧だった人間が生身を取り戻したとなれば、そしてれが国家錬金術師だったら。
ある聡い者はその事実に気づいてしまった。
そしてその聡い者は偶然、ロイ・マスタングの動向を探りたい佐官から送られていたスパイだった。
誰が止める間もなく、混乱に乗じて暴かれてしまった兄弟の秘密。
今この世に彼が姿を現したら、再び世の中に大きな混乱を招くだろう。
「それでなんだけど」
急にホークアイは話題を切り替えた。
「はい?」
「彼くらいの年頃で容貌が似た、過去の記録が曖昧になっている男性をリストアップしてみたの」
「っえ…あの、大尉!?リストアップって…」
「アメストリス全土だから、それでもかなりの人数になるけど、明日か明後日、来れるかしら」
ハボックはたずねられて慌てて時計を見た。
明日一の汽車に乗れば遅くとも日が暮れる前には落ち合えそうだ。
「え、ええ問題ないっすけど、でも」
「念のため、アルフォンス、と言う名前と該当しそうな子も調べてみたの。少しは手がかりになると思って」
「あの、大尉、その、大丈夫なんすか…?」
ホークアイのことだからこのくらいの仕事は朝飯前だろうが、しかし、
その立場を考えればこんなことしていられるほど暇な人間でないことは既に軍を出たハボックにもわかる。
「気にしないで」
「いや気にするなって言われてても…」
言いよどんでいるとホークアイが息を吸って呼吸を整える「音」が聞こえた。
「むしろ私が力になれるのはこのくらいよ。後は、貴方に任せることしかできません」
ホークアイの言葉はまるっきり弱みを見せない、それどころか強くはっきりした意思が垣間見える。
「どうか、どうかあの子を見つけ出して、助けてあげてほしいの、ハボック少尉」
-マスタング組の生き残りが、いけしゃあしゃあと。
ロイ・マスタングの失脚後、新しく就任した上司からはとかく邪険に扱われた。
そいつの子飼いの部下達からの陰口も耐えなかった。
中央に出向した日なんかは最悪で、そのままストレートに嫌味を言う人間すら居た。
ホークアイなんかは更に屈辱的でセクハラまがいの嫌がらせも受けてもやり返すこともせずに黙って仕事をこなしていた。
それに比べたらハボックはマスタングの後を追うと言う名目でさっさと軍から逃げたも同然だった。
「自分の地位を捨てることもできない、それでいてこんなことしかできない私が頼むのも酷い話だと感じるでしょうけど、くれぐれも、頼むわね」
彼女はいざとなれば真っ先に逃げ出してもどこででもやっていける、それだけの能力を持っている。
それでも辛い境遇から逃げず、厳しい風評を一身に受けながら軍に残って必死で昇進を勝ち取った。
そんな彼女の頼みを、願いを、気持ちを裏切りたくは無い。
「任せてください、大尉」
電話を切った後、遥か東方の強い意思を持った女性に、ハボックは敬礼した。