決戦、第3新東京市 1.予兆(よちょう)
『シンジ、エヴァンゲリオンのパイロットになれ』
父からの言葉が、深く胸に突き刺さる。
ずっと逃げていたのに。
ずっと逃げられると思っていたのに。
それなのに。
これが僕の宿命なのだと、僕はもう心のどこかで覚悟していたのかもしれない。
目が覚めるのと同時にカタカタカタとゆれだす家具。
今週に入って何度目の揺れだろう。
よろよろ起き上がり扉を開ければそこには母、ユイ。
「シンちゃん、朝ごはん、たべるわよね?」
見事に捕まった。
顔を洗って歯磨きを済ませると強制的にダイニングに連れて行かれる。
「あなた、シンジ連れてきたわ!」
「ああ…」
先客が居た。
「お、おはよう…」
「おはよう」
父、ゲンドウの低い声は胃に響く。
「今日は遅かったじゃないか」
揺れる家具が怖くて眠れませんでした、とはさすがに言えない。
母はキッチンでまだ作業をしているようなので助けを呼び辛い。
どうしたらいいのだろうかと迷っていると更に続く低い声。
「どうした。座らないのか」
新聞紙の向こうから眼鏡越しの瞳がこっちをちらりと見ていた。
怖いよ父さん…
父と母はいつも隣り合って座るので、シンジはなんとなくゲンドウの斜め向かいに座る。
そして座ると同時にまた微かな振動。
「ま、まただ…」
つい漏らした言葉にゲンドウは特に何も反応は返さなかった。
が。
「シンジ、今日は学校を早退することになるかもしれんな」
嫌な言い方だった。
予感はしていた。
シンジにとってはあまり訪れてほしくなかった現実。
でも、ゲンドウが、つい先日、特務機関の最高司令官に就任した碇ゲンドウがそう言うのだから間違いない。
「来るの…?」
ゲンドウが新聞紙の頁をめくる音だけが返って来る。
返事は無かった。
「お待たせシンちゃん、あなた!母さん抜きで何を話していたのよ~」
キッチンから姿を現したユイの手には三人前の味噌汁とご飯と焼き魚の乗った大きな盆。
母のバランス感覚おそるべし。
「別に。仕事、どうかなと思って」
能天気な母にはなんとなく言いづらい話だったので、シンジは母から顔を逸らした。
「まあ…研究所だった頃とあまり変わらないわよ」
「そうなの…?」
「強いて言うなら父さんがもっと偉くなって母さんが技術課長になって、研究員の制服も変わったことかしらね」
ユイはニコリと笑う。
本当は、こんな朝食の時間も惜しいくらい忙しいんだと思う。
シンジが幼少だった頃の昔に比べたらマシにはなったが、朝早くて夜遅い生活。
「さあ、いただきましょう」
ユイがそこで話を打ち切るとゲンドウは新聞紙を閉じて箸を手に取る。
シンジも少し戸惑いつつも箸を取った。
何ヶ月ぶりだろうか。
最近はずっと朝早くに家を出ていたから忘れていた、食卓の風景。
なんとか残さずに朝食を済ませて部屋で着替えると、いつも家を出る時間よりも10分も過ぎていた。
慌てて部屋を出るとチャイムの音が響く。
「やばっ、カヲル君のこと忘れてた!」
学生鞄を掴んで玄関に向かう。
「あらシンちゃん、渚君と学校に行くの?」
後ろから母に問いかけられて足を止めるシンジ。
「え、うん…」
何で聞かれるんだろうと怪訝な顔で振り向くとユイは何故か苦笑していた。
「そうなの、じゃあ…気をつけてね。行ってらっしゃい!」
急いでたから気づけるはすが無かった。
ユイからは見えても、シンジからは死角になる位置に立っていたゲンドウの存在。
そしてその顔がとっても不機嫌な色をしていたことを。
ドアの前にはやはりカヲルが立っていて、シンジは歩きながら謝る。
「ごめん、待った?」
「全然。僕もさっき時計を見て慌てて家を出てきたところ」
結構長いこと待たせたに違いないのに、隣の隣の隣に住むクラスメイトは嫌な顔一つ見せない。
「ね、シンジ君」
カヲルは階段に向かうシンジを呼び止めると、その手前のエレベータの前で立ち止まる。
「たまにはエレベータを使おうか」
「うん…別にいいけど…」
確かにエレベータを使わない理由があるわけでもないのに、何かを躊躇う様子を見せるシンジ。
「でも、大きな地震が来て止まるのも嫌だから、やっぱり階段使おうか」
カヲルはそう言うとまた歩き出し、シンジを追い越していってしまう。
「え?え?カヲル君???」
シンジは慌ててその後を追った。
足が階段にさしかかると、カヲルのスピードも緩まってようやくシンジが並ぶ。
表情はやわらかなままだから怒っているわけではなさそうだ。
一生懸命顔色を伺っているとカヲルの顔がシンジの方に向いてニコリと笑う。
「地震が治まったら今度はエレベータ使おうね」
「うん、なんかごめん…」
気遣ってくれたんだ、とシンジは思うことにした。
「一番上の階って、安全なんだか危険なんだかわからないよね」
ふうとため息を吐くカヲル。
じゃあなぜその最上階にカヲルは引っ越してきたのだろうかとは気になっても聞けなかった。
「うーん…少なくともここは安全、ではないような気がするよ…」
シンジも生まれついた自宅の問題性に浅からずため息を吐く。
ここら辺は同じような階層のマンションが多い。
倒壊したら他のマンションとぶつかりあって真っ先に死にそうな気がする。
「一軒家って羨ましいよね」
「そう思っても、第3新東京市に住む以上はそんな贅沢は望めないだろうね」
シンジがぼんやり呟くとカヲルが苦笑して返してきた。
確かに第3新東京市は集合住宅が圧倒的に多く、他は国有の土地ばかりで家など建つ余地がない。
もっと田舎にある母の実家は一軒家らしいけどあまり行った記憶は無い。
カヲルは独り暮らしをしているけど、家族はどうなっているんだろう。
引っ越す前の家は?
ただ、疑問は頭の中をぐるぐるとめぐるばかりで言葉にすることはできなかった。
その後も雑談を交わしていると学校の前の通りにたどり着く。
「あ、トウジとケンスケだ」
いつもは自分達の方が早いから、後から合流するのはなんだか新鮮だ。
「シンジと渚、今日は遅いじゃん。おっはよー」
先にケンスケが気づいて振り向いた。
「おう、はよう、シンジ…それから転校生…」
トウジはなんだかムスッとしている。
「トウジ、なんか元気なくない?」
「あの日、じゃないの?」
二人の元へと駆け寄って行ったシンジの後から暢気なカヲルの声が追いつく。
「か、カヲル君…なんの話だよそれ…」
朝からとても疲れるのはどうしてだろう。
「じゃかあしいわ転校生!なにすかした顔して下の話しよんねん!」
目に見えて不機嫌が顕になる。
「あれ、違うの?何か漫画にそういう風に書いてあったから」
知識の仕入先が間違ってるよ…とは突っ込めず。
「いや、渚、それはあれだよ、女子にはそう言う風に遣うかもしれないけどさ」
「おっはよーシンジ!それとジャージに眼鏡に変態の諸君!」
と、ケンスケが皆まで言う前に、今ここで一番から二番目くらいに現れて欲しくない人物が言葉をさえぎる。
「お、おはよーアスカ」
必死で作り笑いするも、青ざめるシンジ。
友人達との爽やかな朝は望めそうに無い。
「おはよう惣流君。どうしていつもシンジ君しかちゃんと名前を呼んでくれないの?」
「お前なんぞ変態で十分じゃ」
トウジがカヲルの疑問に横槍で答える。
「そうよ、変態渚!朝っぱらからシンジにくっつかないでよ!」
アスカは言うなりカヲルとシンジの間に割って入った。
「あ、アスカ!?」
アスカがごく自然にシンジの腕に肩を絡ませてきたために、この年頃では大きめの胸がシンジの腕を責める。
「あ、あああ、あの、む、ムネ…ムネが…」
その顔は茹で上がった蛸のように真っ赤に染まっていて湯気まで噴きそうな勢いだ。
「うおお、シンジが、シンジがうらやましすぎる…!」
と言ったのはケンスケの口で、それを見ていたアスカの口元がわなわなと震える。
「シンジもシンジよ!ただでさえ周りがバカばっかなんだから変態まで加わったら大変なことになるわよ!」
「つーか周りがバカばっかってなんじゃい!シンジもワイらも成績大してかわらんで!?」
「そうだよ、いくらなんでも友達にバカとか変態は失礼じゃないかい?」
「と、も、だ、ちぃ?もう一度その口で言って見なさいよ!変態ホモ魔人!」
どんなにけなされても涼しい顔だけは崩さないカヲルに苛立ったアスカはとうとうその胸倉を掴んだ。
「うおっ!今カメラ持ってたらすっげーおいしい写真なのにぃ!」
最早、こうなってしまってはシンジにはどうしようもできない。
まとまってるのかまとまってないのかよくわからない集団は、騒がしくも校門へと吸収されていった。
昼を済ませた後、午後の授業と言うのは誰しも眠くなる。
「15年前、君達が生まれるほんの1年前に起きたあの忌まわしい事件は…」
ついでに老教師の昔話と言う相乗効果で教室の生徒の大半は夢の世界に誘われようとしていた。
ジリリリリリーーーーーッ!!!
そんな穏やかだった教室に突如鳴り響いたけたたましいサイレン。
『えーたった今政府より大規模地震事前感知による緊急避難警報が発令されました生徒は先生の指示に従い落ち着いて非難してくださいもういちど伝えます…』
そして慌しく続く校長の緊急放送。
「大規模地震!?なんだよそれ!」
「に、逃げろー!」
「ああ、き、君達待ちなさい!」
飛び起きた生徒達は突然の事態に老教師が指示も聞かずに一目散に廊下に出る者まで現れる。
「みんな、落ち着きなさい!」
そんな中で飛び込んできたのは、葛城ミサト、2年A組の担任だった。
「先生!地震ってどんなんなんですか!?」
「どこに逃げればいいんだよ!」
「今から説明するから、とにかく落ち着きなさい」
気の強い担任になだめられ、取り乱して走り回っていた生徒達もなんとか各々の席に戻る。
「これから約6分後に太平洋プレートのひずみによる大規模な地震が起きることが観測されました。さすがに直接の被害はそれほどないらしいけど、津波の心配が予想されるの。だから皆には学校のすぐそばにある地下シェルターに移動してもわうわ!シェルターまでは歩いて5分。津波が来るとされるのは15分後。全員生き残ってもらうためには1分の遅れも許されない!さあ出席番号順に並んで!」
ミサトの号令で生徒達は素早く番号順に並ぶ。
他のクラスの生徒達もA組のようにまでは行かないが、なんとか順番になって階段を降りていくところだった。
「なあシンジ」
シンジのすぐ前に並ぶケンスケがこっそり呟く。
「な、なに?」
「綾波、今日大丈夫なのか?」
「あ…そういえば…」
クラスメイトであり、本来の出席番号順でならシンジとケンスケの間に入るはずの綾波レイ。
その彼女は2日程前から風邪で欠席していた。
「でもさすがに連絡いくんじゃないかな…」
そうでなくてもうるさいくらいのサイレンや市内広報での地震予知の情報が流れているのが聞こえる。
「そうか、な…何事も無けりゃいいけど」
ケンスケはそれきり前に向き直った。
混乱もあって1、2分送れてシェルターに到着し、点呼が済むとシェルター内では自由行動となった。
と言っても一つの広間に全校生徒と付近住民がすし詰め状態なので自由も何もないのだが。
「碇君」
はぐれてしまったカヲルの姿を探していると苗字を呼ばれ、はっとなって振り返る。
「ちょっち、いいかしら」
担任のミサトだった。
「お父様、碇司令から、呼び出しよ」
朝の父の言葉を思い出す。
「この騒ぎの中で、ですか…」
「…驚かないの?」
ミサトがどこまで知っているのか知らないが、シンジの中ではこういった事態はある程度予測できていた。
「ええ。事前に聞かされてましたから…でも」
僕は行きません。
はっきりと、言った。
「な…碇君、あなた自分が何を」
「わかってます。でも僕は行けません。僕に何を言われても僕には何もできません」
行っても足手まといになる。
再三言われた訓練だって一度も足を運ばなかった。
両親の、父や母の顔に泥を塗るだけだ。
「そうやって、逃げるの?」
担任の教師に睨まれる、と言うのを、シンジは今まで経験したことがなかった。
地味な子供だった。
「ちゃんと探せば平凡な僕なんかよりもずっと適任者がそこら中に居るんじゃないですか?」
たとえば…考えてすぐにカヲルがあがったが、それはどうしてか考えたくなかった。
しかしミサトは首を振る。
「このことはねあなた、シンジ君でなければ、できないのよ」
「僕でなければ…?」
たかがロボットの操縦だと言うのに何故、自分と言う存在に限定されてしまうのだろうか。
皆が口をそろえて言う。
碇シンジでなければ、できない
「今ここで説明したってわからないだろうけど物と物には相性ってもんがあるのよ」
肩を掴まれ、とにかくわかって欲しいのだと言う懇願色の瞳を真正面からぶつけられる。
それで、いつだったか一番にこの話をした赤木リツコがシンクロ率がどうのとか言ってたのを思い出した。
「とにかく、いつまでもご両親から逃げてちゃだめよ…ッ、時間がないわ!送るから来なさい」
手首を掴まれ、強引に引っ張られる。
自分がこの手を振り払うのは簡単なことだったのに、何故かそれが出来なかった。
誰かに、何かに、呼ばれているような気がした。
こっそりシェルターを抜けた先に止めあったアルピーヌ・ルノーA310。
どうやって運転すればこんなにボッコボコになるのかと思ったけど実際に乗ったら十分理解できた。
『早退どころの騒ぎじゃないじゃないか!』
シンジはこれからすぐ対面するであろう父への文句を真っ先に思いついた。