ネルフ、誕生 後
少し時間を戻して、昼。
ジオフロントと呼ばれる、千石原を中心とした半径3キロに及ぶ巨大地下空間。
その空間の中心部に存在する人口進化研究所は今、解体の時を迎えていた。
『本館開放完了しました。搬入開始します』
「貴重なデータ多いから運搬気をつけてね」
『了解、そちらもくれぐれも事故のないように』
「ええ、くれぐれも」
電話報告を終えるとユイは携帯を切った。
「いよいよですね、碇博士!」
その後ろに控えていた伊吹マヤが期待の言葉をかけてくる。
「特務機関ネルフ…か…」
「この国の明日を担う中枢ですよ」
二人は旧施設から遥か遠方へ移転を遂げた新施設となるピラミッド型の建造物を眺めていた。
「ね。同時に、私たちの計画がとうとう本格始動するのよ」
人口進化研究所の後続組織となる予定の特務機関ネルフは国連の承認も得、今週6月6日に正式に発足する。
ユイとしてはまだまだ未知の領域の多い研究分野であり、実験を重ねる余地があると強く宣言していた。
しかし夫であるゲンドウは強硬な意思をもってとうとう研究所から特務機関への移行を果たしてしまった。
「まさかの急展開だったから準備不足も否めないけど、まったく先に進まないよりはマシね」
さあ自分達も引越し作業手伝うわよとユイは自ら元研究所ロゴの入ったままのワゴンの運転席に乗り込んだ。
だが。
「でも、よりによって今週末とは」
マヤが助手席に乗るのを確認し、シートベルトを閉めながら呟くユイ。
「…どうかしたんですか?」
「うちの子がね、誕生日なの」
ユイはマヤと会話をしながらサイドブレーキを下ろし、シフトをDに入れてアクセルを踏んだ。
「お子さんて…サード候補のですか?」
「ええ…候補と言ってもまだその話すらできてないけどね。研究所に来るのも嫌がるし」
週末は終始家出状態だし、平日は自身が家に居る時間もさることながらほとんど部屋に閉じ篭られてしまっていて口を聞いてくれない。
「…それはまた、頭が痛いですね」
二人に訪れる沈黙。
現在、上層組織であるマルドゥック機関の報告によれば三人のパイロット候補が挙げられている。
一人は既に特務機関最初の仕事である試作零号機の起動実験が予定されているので決定も同然。
もう一人もドイツ支部で建造され、調整中の先行量産型弐号機の起動実験に成功しており、やはり決定も同然。
しかし懸念されるは最後の一人。
事実上の主力となる予定の実験初号機はパイロット搭乗拒否が予想されるため凍結される可能性が高い。
「せっかく初号機の調整も順調なのに…」
はあとため息を吐くマヤ。
バチカン条約の締結で国内のエヴァンゲリオン保持数が限られている中、
パイロットの候補者すらままならない現状は頭痛の原因にしかならない。
「惣流博士が羨ましいわ」
現在ドイツ支部の解体・開設のために出張中である部下に対してユイは羨望のまなざしを向けざるを得なかった。
E計画の要である汎用人型決戦兵器・エヴァンゲリオンの運用、それは親子の絆に最も左右される問題なのだ。
そして時間を戻す。
「それにしてもカヲル君、どうしたの急に」
高鳴る胸を落ち着けて、努めて冷静を心がける。
「急に、シンジ君と会いたくなってね」
カヲルは自宅の扉を開くと、冷蔵庫から持ち出した夕飯のおかずを抱えたシンジに先に入るように促した。
「さっきまでも会ってたのに?」
シンジがあがりこむのを確認するとカヲルは扉を閉める。
「さっきじゃなくても、今…会いたいと思うのは、だめなのかい?」
カヲルの指がシンジの顎に伸びてきた。
「あの…だめじゃない…けど…」
その仕草と言動に戸惑いうつむくとカヲルの指はシンジの頬に移動した。
「ときどき、どうしても、シンジ君に会いたくなるときがあるんだ」
「…僕に…」
どうしてか、視線を合わせられない。
「シンジ君を一人にしたくないんだ」
なぜか、それを見ているわけでもないのにカヲルの顔が近づいてくるのがわかる。
カヲル自身の発する「意思」のようなものを、シンジはしっかりと認識していた。
「ごめんね、シンジ君」
「かを…」
その言葉にはっとなってカヲルに視線を移そうとしたシンジは、固まった。
冷蔵庫の中で冷やされていてまだほんのりと冷たい夕飯のおかずごと、カヲルに抱きしめられていた。
「ごめん」
謝る理由を半々で理解しつつ理解できないシンジは、何も言えずにシンジよりひとつ背の高いカヲルの胸に顔を埋める。
とくん…とくん…とくん…
カヲルの静かな鼓動が心地いい。
このままずっとこうして居たい。
そう思ったのに。
「まだ、だめなんだ」
カヲルの言葉は、その時間の終わりを告げた。
「シンジ君と、まだひとつになれない」
少し、体が離れて、代わりにカヲルの顔がシンジの顔の真正面に来る。
「ごはん、食べようか」
目の前の顔が、いつもの笑顔に戻る。
でもそれはシンジの胸の中に詰まっていた何かが張り裂けてしまいそうな笑顔。
「うん…」
ただ、笑い返すしかできなかった。
翌。
結局、自宅に戻りたくなかったシンジはカヲルの家に泊まり、共に登校した。
父母から何の音沙汰も無いのは少し寂しくもあったが、もともとそんなものだとも思って気にしていない。
「おっはよーシンジ、なんか今日は元気だな」
「おはよう。そうかなあ?別にいつもと変わらない気がするけどね」
「えー、まず顔色が随分違うね、それから声のトーンだろ、あとは…」
「はいはいわかったわかった。あ、トウジもおはよう」
ケンスケの話を打ち切るためにシンジは代わってトウジに笑顔を向ける。
「おお、はよー。いつも通りで何よりやな」
一晩考えた末、両親が自分に対してどうあろうと平然と振舞おうと決めていた。
「それよりシンジ、宿題見せてくれよー!昨日ついつい徹夜しちゃって何も手つけてないんだ!」
両手を合わせて拝む格好をシンジに見せ付けるケンスケ。
「えええ、ネットでもしてたの?トウジに見せてもらえば?」
「だってトウジのデータってごちゃごちゃしてて見辛いんだもん!渚じゃ頭良すぎてソース疑われるし!」
尤もな理由をつけられてシンジは仕方ないなあと学生鞄の中から宿題データの入ったディスクを渡した。
「おおお!恩に着る!さすがシンちゃん、俺惚れちゃうかも?」
「き、気色悪いよケンスケ…」
旗から見ればもうすっかりいつものシンジのペースだった。
「なあ渚、誕生日の話、すすんどるん?」
「ああ、あれ?やっぱりやめたよ。いつも通りの方がいいかなって」
昨日と一変、普段通りの態度に戻っていたシンジとケンスケが何やら二人で話している合間に、
トウジにそれとなく聞かれて、カヲルはあっさり計画の断念を伝える。
「ほーかい…」
「シンジ君、お家が忙しくてそれどころじゃないみたいだから」
「ああー…そやなあ…当たり前か…」
トウジの父親も人工進化研究所、いや、将来的にはネルフの末端職員である。
末端である父の帰りすら遅いのだから、シンジが置かれている状況というのをなんとなく理解できた。
「ほんなら渚…その分、今までよりずっともっとあいつの傍に居てやってくれんか?」
トウジの言葉はカヲルをシンジの友人と認めたのに等しい言葉だった、
「うん。そのつもりだよ」
ふふっと笑ってシンジを見る。
トウジにとってはいつも通りのシンジ。
カヲルにとってはいつもと違うシンジ。
カヲルは昨夜、一瞬でもシンジの「心の壁」を無理やり抉じ開けそうになった。
近付こうとして近付きすぎて、結果ほんの少し遠ざかってしまったシンジ。
ヒトの心、特にシンジのそれは非常に脆いモノなのだとカヲルは実感した。
だからカヲルはシンジの傍に居てやらなければならない。
…なにしろ、シナリオは確実に進行しているんだから。
カヲルの呟きは誰にも聞き取られること無く、第3新東京市の空へと吸い込まれていった。
その夜も、両親の不在のため、シンジはカヲルの部屋に泊まる。
「カヲル君…使徒、って何?」
漫画を読むシンジの背中を背もたれにしてゲームするカヲルに問いかけた。
いつか、カヲルが使徒は必ず来る、と言っていたのを思い出したからだ。
「セカンドインパクトに続いてサードインパクトを起こすもの。人類を脅かす脅威」
にべも無く言い切るカヲル。
「…なんで、カヲル君はそんなこと知ってるの?」
公式発表では、大質量隕石の落下によって発生したことになっているセカンドインパクト。
シンジもつい最近、赤木リツコからの接触があるまではそうだと思い込んでいた。
そしてそれが裏も表も無い真実なのだと思っていた。
「聞かない方が良いよ。聞いたらシンジ君は僕を軽蔑するから」
「軽蔑、なんてっ…」
慌ててカヲルに顔を向けると、昨日の夜と同じ笑顔。
「でも、言いたくないなら、聞いちゃだめだよね…」
自分ですら言えないことがあるのだから、それを他人に強要してはいけない。
それきりその話題は二人の間では潰えることとなった。
追われるようにして迎えた、6月6日。
特務機関ネルフ本格始動の日。
そして記念すべき日本では初となるエヴァンゲリオン試作零号機起動実験の日。
『ハーモニクス異常発生!パルス逆流しています!』
しかし、起動後まもなく、機体は拘束具を引きちぎり、大きく唸り声をあげた。
『エヴァ、零号機…暴走です…!』
拘束ボルトを引きちぎり、実験場内を苦しむように暴れまわる機体の姿は、まさに獣。
「そんな…パイロットは…!?」
実験を見守っていたユイは慌てて搭乗者の生存を確認する。
しかし。
『パイロット生存確認不能!』
絶望的状況だった。
「まずいわ、プラグを強制射出して!」
『できません!零号機信号を拒絶!制御不能です!!』
「拒絶ですって!?とにかくパイロットを助けるのよ!!ケーブルを遮断して!」
もはや、原動力となる電気の電源を引っこ抜いて零号機を強制的に停止させる荒療治しかこの事態を打開する手立ては無かった。
『了解!ケーブル遮断、零号機活動停止まであと100』
『50…45…』
活動停止までのカウントダウンの中、ガンガンと殴りつけられる実験施設の壁と言う壁。
ユイ達の居る発令所ではなくその壁の一角に設けられた窓に立っていたゲンドウは、
しかし己の身に危険が及ぼうとも身動きひとつとらずにそれを見守る。
『10…9…8…7…6…5…4…3…2…1…』
0、と読み上げられ、漸く動きを止める零号機。
『零号機、活動を停止…完全に沈黙しました…』
「プラグ、射出して!」
ユイの指示で今度こそ零号機の頚椎部分からプラグが排出され、地面へと降下する。
「ちょっと外すわよ…!」
ユイはその言葉を吐き出すと共に発令所を飛び出していた。
「碇博士!?」
マヤが驚きの声をあげるのも聞かず。
発令所を飛び出したユイは、プラグの元へと駆け寄り、高熱を放つハッチを耐熱グローブでごまかして無理やり抉じ開けようとする。
「ユイ、落ち着け!!お前だけの力では到底開かんぞ!」
後からその姿を認めたゲンドウが追いかけてきて必死でハッチを抉じ開けようとするユイの手助けをする。
ギギギギ…
金属同士が摩擦する嫌な音の後、その隙間から見えた顔の、その目はうっすらと開いていて。
「…ユイ、さん…」
その口がユイの名を呼んだ。
「…意識はあるのね!?」
どうにか人が通れるほどの隙間を作ると、ユイはすかさず搭乗者の元へと踏み込む。
「レイ…良かったレイ…」
ユイがその胸元に強く抱きしめた搭乗者、色白な少女の目は赤く、髪の色は薄い青灰。
それは、シンジ達が通う第壱中学校への転校生である綾波レイだった。
誕生日は、ささやかにだけど帰りにお菓子を買ってトウジ、ケンスケ、カヲルとシンジで祝うにとどめた。
アスカもどこかで話を聞きつけたのか、落ち着かない顔で「おめでとうシンジ!」とだけ言うと背中をバンバン叩いて逃げるように帰っていった。
しかし事後処理に追われた碇夫妻の帰りは遅く、週末だったこともあってシンジはやはりカヲルの家に泊まる。
その生活もあとほんの2~3日続いた後であっさりと終焉を迎えるのだが。